愛したかったロックンロールがここに在る【climbgrow】

音楽文に投稿していた「愛すべきロックンロールがここに在る」というclimbgrowについて書いた文章の改訂版です。音楽文のサイトが閉鎖するため、原本は消えますが、今の気持ちに当てはまるよう改訂してここに残します。

climbgrowとの出会いは、『極彩色の夜へ』という曲だった。YouTubeで再生した瞬間、すべてを持っていかれた。

ボーカルである杉野泰誠のしゃがれた声と、初めて聴いたのに妙に身体に馴染むメロディ、芯を打つサウンド。そして、苦しくもどこか優しさと強さを感じる、繊細な歌詞。

人生で初めて味わう「出会った」という感覚があった。

彼らを知って間もなく、「COUNTDOWN JAPAN 19/20」にclimbgrowが出演することが決定した。ここで私は彼らの新しい一面を知ることになる。圧巻のステージが終わるとき、ボーカルの杉野がニヤッと笑って「俺らかっこいいっしょ」と言い放ったのだ。若いなと思った。と同時に、肝の据わり方が最高だと思った。私の心を奪ったロックンロールを鳴らしていたのは、自信と闘志に満ちた若い兄ちゃんたちだった。伝説的な遠い存在なのではなく、彼らはこれから駆け上がっていく存在なのだと分かったとき、彼らが成り上がっていく様を見たいと思った。

それから、行けるほとんどのライブに行き、climbgrowの魅力を発見してきた。

彼らの魅力は非常に複雑だ。かっこよさがあれば優しさもあり、渋さがあれば若さもある。自信満々なのかと思いきや、コンプレックスや葛藤を感じさせるときもある。一言では表せない魅力を彼らは持っている。

言葉にできない魅力なのは百も承知だが、私はあえて言葉にする努力をしてみたいと思う。


杉野はMCで、「俺にはこれしかない、バンドしかない。」ということをよく言う。同級生が勉強や部活に勤しむ高校時代を、すべて音楽に費やしてきたような人だ。周りの友達が就職していったときも、「俺にはこれしかない」「俺にはこれさえあればいい」と言い聞かせながら、すべてをバンドに注ぎ込んできたのだろう。

climbgrowの音楽には、杉野の全てが注ぎ込まれる。ライブではその魂が見える。

彼は歌うとき、苦しげな表情をすることが多い。climbgrowの音楽は、ロックンロールのかっこよさに酔いしれ、最高に楽しめる音楽だが、どこか苦しさも纏っている。

杉野の歌い方は、喉にエッジを効かせ、削るようにしてしゃがれた声を出す歌い方だ。眉間にしわを寄せ、鋭い眼光でフロアを睨みながら、しゃがれた声で叫ぶ杉野に、聴き手の心は持っていかれてしまう。目も、耳も、彼の表現から離せなくなる。そして、心をえぐり散らかされ、気が付いたらライブが終わっている。身体と心のすべてを懸けてぶち鳴らされるロックンロールだ。

climbgrowの代表曲の一つである『ラスガノ』の歌詞には、杉野の人間性が色濃く表れている。以下に歌詞を抜粋する。

「不安な未来が嫌いで そして弱い自分が嫌いで 情け無い自分が嫌いで
だから前向いて進んだ ガラスの靴は無いけど 
この履き潰したスニーカーで どんな道も進むと決めたし」

未来への不安や自分に対する嫌悪感が表現されており、作詞した杉野が悩んだり、もがいたりしながら生きていることが伝わってくる。ライブで見る彼は、とても強気だ。自信に満ちた表情が、climbgrowのロックンロールがもつ強さを引き立てる。その迫力は凄まじく、雲の上の存在に思えることもよくある。だが、歌詞を読むと、彼もまた、私と同じ地面に足をつけて歩いている人間なのだと思える。

climbgrowの音楽は、そのかっこよさと激しさゆえ、強い音楽に聴こえる。だが、最初から強いのではない、いつも強いわけでもない。弱いけれど、それでも強くあろうとする音楽なのだと思う。

歌詞では、「自分が嫌い」だという言葉に「だから前向いて進んだ」という言葉が続く。何かが足りなかったり、どうしようもなかったり、そういうマイナスな状態をなんとかプラスに転じようとしてぶち鳴らす音楽だと思う。だからものすごくパワーがいるし、歌う杉野の眼光も鋭く光るのかもしれない。

楽しむ、癒す、音楽にはいろいろな楽しみ方があるが、climbgrowは、苦しみと戦うための音楽という要素が強いのではないだろうか。日常という名の地獄を踏みしめながら歩くための、音楽。

続きの歌詞も抜粋する。

「この先の未来なんて 誰が決める物でもないから
腐ってしまうほど有り余った 絶望や希望を飲み干すんだ
未来を変えるのはお前自身だろ」

climbgrowの音楽は苦しみと戦うための音楽だと思うが、私の苦しみと代わりに戦ってくれるわけではない。私の未来を変えられるのは私だけなのだ。それぞれが自己の苦しみと戦う。私は私の苦しみと戦う。私にとってclimbgrowの音楽は、苦しみと戦うための力を少し分けてくれるような存在だ。

歌詞の最後を抜粋する。

「この足で運んでやるよ 明日へとあんたを
一歩目を踏み出したんだ 此処からが勝負だ」

彼らの音楽を聴くと、立ち止まって前に進めずにいる背中を、思いっきりロックンロールで蹴り飛ばされるような感覚がある。力ずくで私を明日へと運んでくれる。運び方はかなり手荒だが、蹴り飛ばしてもお前ならこけたりしないだろ、そのまま踏ん張って進めるだろ、という信頼ゆえの手荒さだとも思う。彼らの音楽に蹴り飛ばされると、なんでもできるような気がしてくるから不思議だ。

地元を離れて社会人になり、職場で泣いたりくじけたりしていた私を蹴り飛ばして、明日へ運んでくれたのはいつだってclimbgrowだった。

時を経て、2022年3月16日。

4月1日発売予定のミニアルバム『NO HALO』から、新曲『革命歌』が先行配信された。

私はもうclimbgrowの音楽を聴いていなかったから、久々に聴いた彼らの曲だった。

「何億光年先の未来 君の後ろ姿はもうない
変わりゆく街の雑踏を超え 踏み出す新たな僕らの世代」

という歌詞が自分と重なってしまった。

「君」というのは杉野泰誠が憧れてきた音楽家、あるいはもう会えなくなってしまった大切な人を指しているのだろう。後ろ姿を追うのではなく、自分の時代を作るのだという意味の歌詞だと解釈できる。

しかし、音楽を作り手と聴き手の対話のようなものだと考えている私にとっては、「君」と言われると、自分のことを言われているような気持ちになる。彼らの音楽を聴かなくなった私は置いていかれてしまう。そして、彼らはどんどん前に向かって踏み出していくのだと、そんな解釈もできてしまった。

この曲を聴いて、この歌詞を読んで、なんだかとてもスッキリした。
climbgrowは何があろうとも、力強く先へ進んでいくバンドだと思う。もっともっと先へ進んでほしい。見えなくなるくらいに。

ドームでライブをすれば、彼らは米粒みたいなサイズになるだろう。
肉眼では見えない距離。そこまで行けばいい。

遠く離れた頂点で、革命の旗が掲げられたとき、私はその旗を遠くから見てみたい。その頃には、かつて小さなライブハウスでともに拳をあげていた仲間たちも、大きく変わっているだろう。学生は社会人になり、社会人は上司になったり子どもができたりしているかもしれない。それでもまた、あの日々と同じように笑い合えたらいい。